シャチの夢占い:占い師・鈴

木戸の脇に吊るされた小さな鈴が、静かな路地に澄んだ音を響かせた。

チリン。

鈴は湯呑みをそっと机に置き、穏やかに微笑む。

「どうぞ。」

木戸がゆっくりと開き、一人の女の子が遠慮がちに顔をのぞかせた。

肩まで伸びた黒髪をきれいな三つ編みに結び、小さな手で胸の前のかばんをぎゅっと抱えている。まだ小学生くらいだろうか。不安そうな瞳が部屋の中をそっと見回した。

「こんにちは。」

鈴が優しく声をかけると、女の子は小さく頭を下げた。

「……あの、ここ、占い屋さんですよね。」

「ええ。どうぞ、お入りなさい。」

女の子は少し安心したようにうなずき、畳の上へ静かに座る。

しばらく俯いていたが、やがて意を決したように口を開いた。

「あのね……変な夢を見たの。」

「どんな夢だったの?」

鈴は急かすことなく、女の子の言葉を待った。

「海で泳いでたら、大きなシャチが出てきて……。」

女の子の声が少し震える。

「逃げようとしても追いかけてきて、最後は……食べられちゃったの。」

話し終えると、女の子はぎゅっと手を握りしめた。

「目が覚めてもすごく怖くて……。この夢、何か悪いことが起こるってことなのかな。」

部屋には静かな沈黙が流れる。

鈴は女の子の不安そうな表情を見つめ、小さくうなずいた。

「怖かったでしょう。」

その一言だけで、女の子の強張っていた肩が少しだけほどけた。

鈴は湯気の立つお茶を女の子の前へ静かに置き、柔らかな声で続ける。

「大丈夫。夢は、必ずしも悪い出来事を知らせるものではありません。怖い夢ほど、あなたの心が『気づいてほしいこと』を映していることがあるんですよ。」

女の子は鈴の顔を見つめ、小さく息をついた。

部屋の片隅では、小さな鈴が風に揺れ、かすかに優しい音を鳴らしていた。

女の子は、しばらく黙っていた。

膝の上に置いた両手を見つめながら、何かを思い出そうとするように、三つ編みの先を指でくるくると巻いている。

「シャチのお腹の中で、何か見ませんでしたか」

鈴が静かに尋ねた。

女の子は眉を寄せた。

「真っ暗だった」

「本当に、何もありませんでしたか」

「たぶん……」

そう答えたものの、女の子はすぐには顔を上げなかった。

鈴は急かさず、湯呑みから立ちのぼる細い湯気を見つめていた。

部屋の外から、魚屋の威勢のよい声が聞こえる。誰かが木箱を動かし、乾いた音を立てた。市場はいつもと変わらず賑わっているのに、この小さな部屋の中だけは、深い海の底のように静かだった。

「……誰か、いたような気がする」

やがて女の子が言った。

その声は、自分自身に確かめるように小さかった。

「誰かが、わたしの名前を呼んだような……」

「どなたでしょう」

女の子は目を閉じた。

けれど、すぐに首を横に振った。

「分からない。顔も思い出せない」

「そうですか」

「知ってる人だったのかな」

鈴はしばらく答えなかった。

女の子の記憶の奥にあるものを、無理に引き出してはいけないと思った。

夢は、言葉よりも深い場所にしまわれたものを映すことがある。けれど、まだ触れる準備のできていない記憶には、そっと布をかけておくことも必要だった。

鈴は女の子の目を見て、穏やかに言った。

「もしかすると、あなたはシャチのお腹の中で、大切な誰かに会ったのかもしれませんね」

女の子は驚いたように瞬きをした。

「大切な人?」

「ええ」

「でも、思い出せないよ」

「今は、思い出さなくてもいいのです」

鈴の言葉に、女の子は少しだけ目を見開いた。

「思い出さなくてもいいの?」

「夢の中で会えたのなら、それだけで十分なこともあります。誰だったのか、どんな顔をしていたのか。それは、心が話してもよいと思ったときに、自然に分かるかもしれません」

女の子は胸のあたりに手を置いた。

そこにまだ、夢の中の声が残っているか確かめるように。

「シャチは、わたしを食べたんじゃないの?」

「そう見えただけかもしれません」

鈴は微笑んだ。

「あの大きなお腹の中へ、あなたを連れていったのかもしれませんね」

「その人に会わせるために?」

鈴は答えず、ただ静かにうなずいた。

それ以上は、女の子自身が見つけることだった。

女の子はしばらく考え込んでいたが、やがて強張っていた肩から力を抜いた。

「じゃあ、怖い夢じゃなかったのかな」

「怖かったことは、本当です」

鈴は言った。

「けれど、怖い夢の中に、怖くないものが隠れていることもあります」

女の子はもう一度、胸に手を当てた。

「誰だったんだろう」

その声に、先ほどまでの怯えはなかった。

代わりに、小さな灯をのぞき込むような好奇心が宿っていた。

やがて女の子は立ち上がり、かばんを肩に掛けた。

木戸の前まで行ってから、鈴を振り返る。

「思い出したら、また来てもいい?」

「もちろんです」

「絶対に報告するね」

女の子はそう言って笑った。

鈴も微笑み返した。

「お待ちしています」

女の子が木戸を開けると、市場の賑わいが部屋の中へ流れ込んできた。

夕暮れの路地には、裸電球が一つ、また一つと灯り始めていた。古びた軒先が淡い橙色に染まり、煮物の湯気と醤油の焦げる匂いが漂っている。

女の子は一度振り返り、鈴に手を振った。

三つ編みを揺らしながら、細い路地を駆けていく。

鈴は木戸の前に立ち、その姿が見えなくなるまで見送った。

女の子は何度か角を曲がった。

来たときには不安でいっぱいだった細い路地も、今は少し違って見えた。

シャチのお腹の暗闇。

自分を呼んだ、誰かの声。

思い出せない顔。

それでも、その人が怖い人ではなかったことだけは分かる気がした。

女の子は歩きながら、何度も夢の続きをたどった。

いつか思い出すかもしれない。

そのときは、鈴に話しに行こう。

そう心に決めた。

けれど、それから女の子が鈴の占い屋を訪れることはなかった。

訪れなかったのではない。

訪れることができなかったのである。

数日後、夢の中で聞いた声をふと思い出した女の子は、市場へ向かった。

魚屋の前を通り、八百屋の角を曲がり、古びた木造の軒先が並ぶ路地を進んだ。

しかし、どれだけ歩いても、あの駄菓子屋の裏口には辿り着けなかった。

同じ場所を何度も通ったような気がした。

さっきまでなかった細道が現れ、覚えていたはずの曲がり角が、いつの間にか別の店の軒先へ続いている。

女の子は、通りかかった人に尋ねた。

「鈴の占い屋さんは、どこですか」

けれど、駄菓子屋を知っている人はいても、その裏口に吊るされた鈴を知る人はいなかった。

「そんな店、あったかねえ」

八百屋のおばさんも、不思議そうに首をかしげた。

それからも女の子は何度か市場を訪れたが、鈴の占い屋を見つけることはできなかった。

迷路のような市場は、少女を拒んでいるようにも、何かをそっと守っているようにも見えた。

やがて季節が巡り、女の子は市場を訪れなくなった。

夢の中で誰に会ったのか。

その人の名前を、本当に思い出したのか。

鈴には分からない。

ただ、ときおり夕暮れの風が木戸を揺らすと、脇に吊るされた小さな鈴が鳴ることがあった。

チリン。

そんなとき、鈴は顔を上げ、しばらく木戸の向こうに耳を澄ませた。

けれど、そこに三つ編みの女の子の姿はない。

市場の入り組んだ路地を、橙色の明かりがぼんやりと照らしているだけだった。

鈴は小さく目を閉じた。

思い出せたのなら、それでいい。

思い出せなかったのなら、それでもいい。

夢は、ときどき答えを教えるためではなく、心の奥に小さな灯をともすために訪れるのだから。

木戸の脇で、小さな鈴がもう一度鳴った。

チリン。

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